具体の抽象である

ちんぷんかんぷんで始めた合気道も自分なりの解釈ですが、ある程度理解が進んできた感じがします。めちゃ面白い。

具体の抽象というのは、
うちの合気道では「円」や「回り」という言葉が出てくるのですが、それはただ単に抽象概念を言っているのではないということです。
それは、ある境地に達した人なので、我々にとっては理解の出来ないことを言っているということではないということを意味しています。
おそらく、本人的には難しいことを言うつもりはなく、素直に表現しているんだけれども我々が勝手に難しいことだと思ってしまっているということなんだろうと思うのです。

それは、具体というのが先にあるんだけれども、その表現が抽象になってしまうということなんだろうと。

だから「円」や「回り」という何か抽象概念みたいなものを頭の中でぐるぐる回しても、まったく効果は現れないということです。
かといって、物質的からだの表現としてだけで現わそうとしてもうまくいかないのです。

そのニュアンスを言葉で表現しようとしたら「具体の抽象」ということになったということです。
質感と言ったりもしますが。

それはつまり、こころと身体を分けて考えること自体が実際ではないということです。
分けて考えられないのです。

こころと言ったとき、それは形のない漠然としたものではなく、結構肌触りがあるものなのです。
そういう感覚を具体の抽象と私は表現するのです。

当然「腰回り」も具体の抽象ということになるのです。
心的でもありつつ身体的でもあるものです。

ここのところが合気道の醍醐味であり一番おいしいところだと思います。

合気道がおもしろい

先日、無肥料無農薬の自然栽培をされている方の田んぼを見学させてもらい、話もいろいろ聞かせていただきました。(ありがとうございました。)

で、その方のおっしゃったことを、超簡単に要約すると
「水は高いとこから低いところに流れるでしょ」だったのです。

えぇ~、なんてシンプル。

そんなん当たり前じゃんと思われますが、
慣行農法の米作り自体を私はよく知らないのですが、慣行農法の田んぼは実はこの水が高いところから低いところに流れるが出来ていないということなんだそうです。

また、大地の力を蘇らせるという活動をされている方がいるのですが(詳しく学んでないので私の解釈なのですが)
そこでも、山から野や畑を通って最終の海まで流れる、水や空気の流れを作るということが言われているのです。で、そのための水脈作りなどをするのですが。

合気道でも、ちょうどそのようなことを考えていたので「あっ」となった次第なのです。
その観点で見てみますと、ぶつかっている時というのはその当たり前の「水は高いところから低いところに流れる」が出来ていないのです。

そっゆこと

古代ギリシャ語に「生命」を表す語に「ビオス」と「ゾーエー」というのがある。

「ビオス」は個体の生命、有限の生命を表すそうで、それに対して「ゾーエー」というのは永遠の生命、無限の生命を表しているそうです。

肉体を持った個体の生命が「ビオス」で、それを越え受け継がれていく流れとしての生命が「ゾーエー」。
または、裏で支えている実体としての生命(ゾーエー)。
「ゾーエー」(全体)という前提のもと、個々の表現としての生き生きとした「ビオス」がある。そんなイメージ。

武道は「いのちのやりとり」をテーマにしてますが、実はこのときの「いのち」というのはビオス的いのちのやりとりの切った張ったではないということです。

武道とは「ゾーエー的いのちのやりとり」というのが私の考えです。

それは生(なま)の人と人が出会うことであり、響き合いであり、共に生きるということだと思うのです。

気づきと反省

最近、自分の表現がちょっとは出てくるようになってきた感じがします。
まだまだ未熟であり、通過点の一つなのだろうとは思うのですが。

そこで感じているのは、武道とは和合なんだなということです。
武道を今はこの切り口で考えています。(人それぞれの切り口があるとは思いますが)
そして、この表現をどんどん柔らかくしていき円和というところに持って行きたいなと思っています。

和合というのは今の私の解釈でいくと、丁寧なコミュニケーションをとるということになります。

その考えにたつと、整っているというのは相手の呼びかけに瞬時に応える準備が出来ている状態ということになります。
準備が出来ている状態というのは、ただ相手の出方を伺っている状態ではなく、こちらから呼びかけている状態があるということです。
まず最初に「あなた」という呼びかけがあるのです。
その呼びかけに対して相手が返してきた反応に全身で受け取り即応える。
この時の感覚は閉じた個体同士の「あなた」と「わたし」ではなく、「あなたとわたしの中間的な何か」という感覚なのです。

そして「呼びかけ」というのがキーポイントで、
人と人が出会い、ただ挨拶するだけでは呼びかけにはならないということです。
単純に「おはよう」「こんにちは」だけではただ音を発したというだけになってしまいます。そのなかに「あぁ、あなたに会えてうれしい」とか「顔も見たくないあっちに行ってくれ」というような【関係性に対して】の意志や希望がないと呼びかけにならないということです。
相手との関係性に働きかける何か、関係性を変容させる何かがないと呼びかけにならない。

またおもしろいのが、呼びかけが成立するには、誰に呼びかけようかと人を選んで(対象物化して)から呼びかけようとするとうまくいかないというのがあります。

『相手を選び、それに声を届けようと身構えるということは、相手を客観的な対象物と化すことであり、相手と自分の間に客観的な距離を設定することである。それを越えて声を届けても、それはいわば物理的な音波であって、人間的な「触れる」行為にはならないだろう。』
(竹内敏晴 著 「からだ」と「ことば」のレッスンより引用)

竹内敏晴さんは別の例えで、チラッと好きな人を見つけとっさに呼びかける時というのは、相手との距離はどのくらいだからこのくらいの大きな声を出さなくてはとかは考えていないだろうと。
その時は、からだ全体がはずんで、いきなりほかの世界は全く消え去り、ただ相手の人ばかりが目の前にあって、それにからだ全体で飛びかかってゆく――それは客観的に間隔が五十メートルあろうとも、すぐ目の前にいる相手にとびつくのと同じことだとも言っていて、
「話かけるとは、距離がゼロになることにほかならない」と。

どうですか?

これらのことから、「合気道の在り方=人と人が出会う在り方」という図式が見えると思うのです。だから、丁寧なコミュニケーションが和合であると考えるのです。
脚下照顧。
足下に極意がある。
基礎的なことであると同時に極意でもあるということなのだろうと思うのです。

稽古時によくあるのが、相手の攻撃してくる手などの相手の部分だけを見て、相手自身の存在を見ないということ。
相手の何かしらの気持ちや想いを受け取らずに、型稽古の形を思い描いたりして次に何をしようかと思考を働かせて相手を無視してしまうこと。
ひとつの系として「あなた」と「わたし」があり、お互い影響しあっていて通い合っているものを、「あなた」という個体と「わたし」という個体があるという感覚でぶつかってしまうこと。

合気道とは
人と出会うということ、他者(あなた)と出会うということ、人と人が向き合うということ、他者(あなたのあなた)として出会うということ。


アホの子に おれはなる!!! どーん

最近感じているのは、できる出来ないというのは才能のあるなしではなく、慣れているか慣れていないかということなんだろうなということです。

その人がどのように時間を過ごしてきたのかということ。どういう習慣を持っているのかということ。

私たちは何かを表現する時には、かならず時間と空間を伴ってしか表現できません。
言い換えると、私たちは自分というものを時間と空間という形式で表現する存在であるということ。

もう一度言いますが、ニュアンス的には
私たちは時間と空間の中で自分を表現しているのではなく、自分を時間と空間という形式で表現しているということです。

・・・・・・・・・・。

後者は自分とは別に時間と空間があるのではなく、自分と時間と空間が不可分であるということでありますから
おおげさにいいますと、自分が時間と空間を生み出している当のものでもあると言っていいのではないのかということです。

前者は自分と世界を分離させて感じている感覚で、後者が自分と世界が主客のない彼我一致した感覚からくるものと言えそうです。

後者の認識から言いますと、慣れつまりはどのように時間を過ごしてきたのか(習慣)ということがそのままその人そのものを表しているということになります。
だからセンスなども大事でしょうけれども、その人がどのような習慣を持っているのかということの方が大事なんだと私は思ってしまうのです。

私たちが時間という形式での表現者であるとするならば、どのような習慣を持っているのかということは、そのことがそのままその人の能力や人柄や性格などを表していることでもあり、つまりは習慣(思考や考え方の癖も含む)=主観的時間(能動的にどう過ごすかという意志)というのはその人の魂であると言ってもいいと思うのです。
そして、習慣であるということは
それらは絶対ではなく、変えていくことも出来るということです。

・・・以上のことは私の勝手な考えですけれども

認識(思考の習慣)を自ら変えていくって、大事なことだと思います。

うちの合気道では、考え方を学ぶことをけっこう大事にしています。
感性も大事なのですが、自分の枠を固定したままで感じることを大事にしているだけでは限界があるように思えます。

自分の中にある今までのゲシュタルト(思考様式)を認識・解体し
新たなゲシュタルトを構築し、認識を変える。
認識が変わることで感覚も変わる。
それによって生まれる新たな感覚、新たな感情。
そして意識の変化。
そんなアプローチ(学習方法)もあっても良かろうと。

それは、
いつか変わるというより、自ら積極的に変容していくという感じです。

和合

合気道をやっている時の感覚を考えてみます。

武道で目指している境地は「無」であるというのは、ほぼほぼ皆さん賛成であると思っています。
おそらく異論はないと思います。(…勝手にですが)

では「無」とは何かですが、これはおそらく自我意識からいっての「無」であるという意味だろうと思います。
平井先生は「無」とは何もないということではなく、”それ”自体であるという表現をされています。

“それ”とは宇宙を創り出している見えないハタラキ(≒無意識)であり、それはまた自分自身でもあると言っています。

だから私は武道で目指しているのは「自我を超えよ」ということだろうと思っているのです。

そして、ポイントとしては自我を確立したのちに、自我を超えるというところにあるのだろうと思うのです。

「無」と表現されている感覚が自我意識がないということだとすると、「死」とは簡単に言うと自我意識がないという状態です。

ポイントとして自我が確立したのちということとしているのは、このためです。
「自我を超える」というニュアンスには二つの方向性があるということです。
①自我が生まれる前の状態(原始の状態)になれば苦しまないなどの理由による自殺というような「死」の方向。後退。
②今までの「わたし」という感覚(自我意識)とは違う、「わたし⇔あなた(宇宙)」という形での「今までのわたしの死」という方向。成長。

武道で目指すのは②の方向です。
だから、この方向を「生きながらにして死の世界に入る」や「無意識(=死)の意識化」という風に表現する人もおられるのだろうと思うのです。

この二つの方向をしっかり意識しないといけないと思っています。
昔の方がよかったといって原始生活に戻るというのはどちらの方向なのかということです。
②は確かに険しいとは思いますが、難しいことではないと思っています。
稽古時にもよくあるのですが、うまくいかないというのは難しいのではなく「新しいから」だということです。
このニュアンスはちょっとしたことかもしれませんが、私は大事にしています。
心の向きが結構違うのです。
これだと失敗が失敗にならないのみならず、経験値になるのです。

【日本語にはいわゆる主語といえるものがないと言われています。これは日本語を使う人の意識が物と精神を同一のものと扱っているためだと言われています。「もの」という言葉を使う時に、物体として「もの」と使う時もあるし「何者だ!」や「ものごころ」「物思いにふける」「もの悲しい」という風にも使うところに現れていると言われています。
で、主語を一番強調して使うのが英語である言われるのですが、実は古い英語は主語がなかったそうです。主語、主語と言い出したのはキリスト教が広まってからという話を聞きました。
これらのエピソードから推測すると昔の人は今のようなハッキリとした自我意識を持っていなかったということ。
ここに、わざわざはっきりとした自我意識をもったというところに私は何か必然性を感じてしまうのです。
超古代の人(?)は今の人より松果体(第三の目とも言われる)が頭の上部に出ていて、自然や宇宙との繋がりが強かったそうです。現在の人は松果体が頭の中まで引っ込んでしまい宇宙との繋がりが太古の人たちより感じにくくなっており、その代わりに思考力を獲得したと言われています。
だから、ここに必然性を感じるのです。
よく太古の人のほうが感受性が優れていて自然と一体だった、それに比べて今の人は退化してしまったと捉える方がおられますが、そうではなく「あえてそうした」というのが真相なんじゃないかと私なんかは思っておるのです。つまり、太古の人が今の人達より自然や宇宙との繋がりを感じていたという感覚と
これから我々が獲得する自我意識を持ったのちに自然や宇宙との繋がりを取り戻したときの感覚はまるっきり別物であるということ。
同じ繋がりと言っても深さが違うのだろうと思うのです。
このことは、 武道でいう「赤子のこころ」と一緒だろうと思うのです。
「赤子のこころ」というのなら赤ん坊のままでいいのかというと、そうじゃないですよね。 ということは、実は宇宙というものは後退というものはなく、つねに「進歩発展している道中」であるということです。
「宇宙の進化、惑星進化という大きな物語」があるとすれば、我々というのはその過渡期であり且つ最先端にいるということです。】

だから私は自我を確立してのちに自我を超えるというのがミソになっていると考えるのです。
では、どうやって②の方向に向かっていくのかですが、稽古時の感覚からの推測です。

自我意識が何をベースに作られているのかということです。
自我意識(わたし)という感覚は「わたしではないもの」という感覚(否定が先行している状態)をもとにして獲得しています。
「わたし以外」という感覚が強まれば強まるほど、それによって「わたし」という感覚も強く感じられるのです。
自我意識というものは、否定と分離によって成り立っているというこです。
だから、自我意識(≒顕在意識)が強まれば本来は自分自身であるはずの自分の中の深いところにある潜在意識(=無意識の欲望や本音や美徳)を他者の理解できない言動や認めたくない性質など(自分とは違うもの=「あの人とは違う」や「ああなりたい」)として認識してしまうのだそうです。

で、この感覚が広大な世界、宇宙の中にちっぽけな「わたし」という感覚を作り出すのです。
「わたし」とは関係なく世界が存在しているという感覚。
時間と距離に囲まれた均一なだだっ広い空間に物質がある、「わたし」がいるという感覚。
これが武道でいうところの分離感覚だと私は思っています。

この感覚をもとにして(自我意識をベースにして)思考すると「観測者としての私」と「対象物」という関係(分離)を作ります。
この状態のままいくら思考しても、対象物として思考している限り分離させているということになるので、何も変わらないのです。
このことは武道では特に戒められていて「分かっては駄目だ」という表現で伝わっています。

また、武道ではよく「見るな」と言われます。
これも肝だろうと思うのです。

見るということで、対象物と観測者という関係を作ってしまうのです。
だだっ広いのっぺりとした3次元空間があり、その中に「私」という個体と「対象物」という個体があるという感覚になり、「私」と「対象物」の間に距離を設定してしまい、つまり分離してしまいます。

稽古ではいかにして対象物としてみないかということが課題になります。
それが「受け入れる」や「自我を捨てる」、「感じなさい」という表現で言われているのだろうと思うのです。

対象物として思考をしない。
それとは違う思考。
“それ”自体になるというアプローチの仕方。体得。

植芝盛平さんは「全身の血液で考えてきた」という表現をされたそうです。

これが「無」であり、分離ではなく和合(瞬間ではなく過去未来がすべて畳み込まれている無時間という時間という意味での今=自己=失われた半身=あなた=君、を取り戻す)なのだろうと思うのです。

おそらく、この時に「世界のはじまる位置」、「宇宙の起点」としての「わたし」が起ち上がってくるのではないのかなと。

ゆえに、母体武道であり創造武といえるのではないのかなと勝手に思っているのです。

姿勢力

最近感じているのは、武道のハタラキはすべて「姿勢力」からくるものなんじゃないのかなあというものです。
感覚(ニュアンス)としてわかりやすいので、自分の中で勝手にそう言っているのですが。

これだと元々そういうハタラキが一人一人に既に備わっているということがわかりますし、
やろうとしなくてもいいということも掴めると思うのです。

これはある状態の感覚を表していて、
人によってはそれを「構え」と言ったり、「統一体」と言ったり、「丹田の力」と言ったり、「呼吸力」と言ったり、「中心軸」と言ったり、「体全体を使う」と言ったりしているものだと推測しています。

「姿勢力」というのは気が円満充実している状態であり、そのような状態の時には既に摩訶不思議なハタラキが現れているというものです。

武道の各種の動きはこの状態を崩さずにどう円滑に動くかというものだろうと思うのです。
站椿法はこの稽古方法だろうし、合気道の一教運動もこれだろうし、各種の型もこの状態を保ったままどう動くかの稽古だろうと思うのです。
大東流や古武道の接触点での回転ではたらきかける技も実際は体全体、丹田のハタラキ=姿勢力の表現だと思うのです。
この姿勢が持っているハタラキを強調しているのが養神館合気道だろうと思うのです。

「姿勢力」という感じは、社交ダンスのようなものを想像してみれば、なんとなく感覚がわかると思います。
けっして指先に力を入て、何かしようとして相手を御そうとしているイメージは浮かばないと思います。

で、うちの合気道ではその状態を球(タマ)と呼んでおり、
武道的課題としてその球(己の世界=腰回りが現れる状態)をどう運ぶかという研究のもとに、シモクや八つの体捌きが考案されたと伺っています。

この「姿勢力」という言葉をヒントにいろいろ研究中です。

改めて創造武

なぜ、ここの合気道に惹かれたのか改めて考えてみます。

単純にいうと先があるということ。
技が出来ました、達人になりました~、パチパチパチお終い、ではないということです。

達人と言われる人たちの動画などを見て私が感じるのは、
「すごいなぁ」と同時に
「で、だから」です。

すごい技だなとは思うのですが、だからという感じです。

なぜ私はそう感じるのか。

それらは
どんなに高い殺人技術だとしても、枠の中のことのように感じられるから。
どんなに高い技術だろうとある枠内における対処法であると感じられるから。

そう感じるのはただ私の興味はその先にあるということで、
「こうやったらこうなります」ということより、なぜ「こうやったらこうなる」というように宇宙は創られているのかという方に興味が強いということなのだろうと思うのです。

それで、うちの合気道はどう言っているのかということについて、私はどう解釈しているのかですが。

変な例えではありますが
「それらは戦乱の世にあっては素晴らしい技術であるが、それはあくまでもそのような世界の中での立ち回る術である。たしかにすごいのだけれども世界の内側での立ち振る舞いであるということ。
うちの合気道でやろうとしていることは、その世界自体を変えていくこと。
ある状況内の対処法ではなく、その状況自体を変化させる、新しい関係性を作っていくこと。
言ってみれば戦乱の世自体を変化させる方法であるということ」
という感じ(ニュアンス)です。

つまりは
「ある宇宙の法則で作られた世界(宇宙)の内側で右往左往することではなく
その法則を知り理解して活用する、世界(宇宙)の外側にいて世界(宇宙)を創ることに参画すること」

そうなんです「おおげさにいうのならば きっと こういうことなんだろう~」と思とるわけなんです。

でもそんなことは置いといて、単純にやっていて楽しいからなんですけどね。

不思議で、楽しいよ。

ほとけさん

稽古をしていると、技が全然かからないという人に出会います。
武道的基礎がないのでそんな時はどうしようもないのですが、
そういう人や場面に遭遇した場合
私は「仏さんが現れた」といことで、心の中で手を合わせるようにしています。

ここが面白いとこで、
こういう場面に会いますといままでの考え方を再点検しないといけません。
知らず知らずに作ってしまっていたこだわりに気づき解除しなければなりません。
気づかないうちに、制限をかけてしまっているということです。
世界を小さくしてしまっているのです。

人というのは自分の見たいもの、興味があるものしか見れないと言われています。
自分の無意識の制限の中のものしか意識に上がって来ないということになり、世界を狭めてしまいます。
だんだんと頭の中が凝り固まっていってしまうのです。

特に自分がこれはいいものだと思っている事柄に対して無意識に悪い意味でのこだわりを持ってしまいがちです。
排他的になるというか、許容量が減る感じになりがちです。

※こだわりをなくすというニュアンスは
誰かの分析で「新海誠さんは知る人には知られている人だったのですが、アンハッピーエンドの作品を作っていたのでいまいちメジャーになれなかった、けれども「君の名は。」ではハッピーエンドになり大ヒットしたと。
しかしそれはお客さんに併合したから商業的にヒットしたのではなく、新海誠さんのこだわりがいい意味でなくなった結果ではないのか」というものがありました。
新海誠さんは「思春期の恋愛を描く」をテーマにしているらしいのですが、
だからこだわること自体はいい悪いはないのですが、
うまくいえませんが自分を不自由にするこだわりはなくした方が自分の魅了をより表現できる
という感じですかね。

ですから、うまくいかないというような場面に出会うということは、その凝りに気づきほぐすチャンスなので「仏(ほどけ)さん」と私はいうのです。
この「仏さん」によって、いままで見捨てていたものにも意識がいったり、今まで考えもしなかったものにも目を向けれるようになり、思わぬ発見があります。
より包括的により柔軟に、大きく変化することができるのです。

なんかいいこと尽くめですね。

「中心帰納」の考察

女性性をbeing、男性性をdoingというお話を前にしましたが
あらためての勝手な解釈。

beingとは存在の仕方、在り方であり、どういう状態であるかということ。
doingは何かをするということ。

優先すべきはまず、在り方、状態を整えること。

よくいわれる「どうしたいか?ではなく、どう在りたいか?」というものです。

状態(being)の方が先。
自分という存在がどういう状態なのかというのが先なのです。
「無対立である」とか「調和である」とか「幸せである」という状態の方が優先されるのです。

「~をするから幸せになれる」ではなく「幸せな私が~をする」という感じです。

受け入れる、一体になるという時も厳密には
「~をして一体化する」とか「~を受け入れる」ではなく
「一体である私(何か)が、調和である私(何か)が~する」という感覚なのです。

今の状態(being)が現象に反映されてしまうのです。
つまり「~して一体化する」では、一体化をしなければ一体ではないということなので、状態としては相手と分離している状態です。
だから、状態が現象に反映されますので、分離している状態のままの自分が何かをやろうとしても世界や相手と分離した現象しか現れてきません。
そしてやりがちなのが、ここ(自分の状態、being)を見ないで、力やスピードや思考(doing)で解決しようとしてしまうことです。
そこ(自分の状態)を見ないで何をやろうとも(力やスピードや思考を使ったとしても)、分離した状態では分離した状態のものしか現出しません。
「入り身」といわれる現象もこの感覚がわからないと出来ないと思います。
入ろう入ろうとしても(doing)出来ないのです、もともとの自分が分離(being)の状態でいたのでは。

「中心帰納」とは本来の自分に戻るという解釈ですが、戻るべき自分の状態を整えていないと効果が現れないということになります。

戻るべき自分というのが、「調和」であり「喜び」であり「安心」であり「幸せ」という存在であるということを思い出し、自覚する。
その自分に戻る=中心帰納
「私という存在が調和ならば、私のすることはどうやっても調和なことしか起きない」
「私という存在が幸せならば、私のすることはどうやっても幸せなことしか起きない」
という具合。
これが私の「中心帰納」の解釈。
(うまくいかない場合を思い返すと、自分の状態が分離、対立の状態であり、「中心帰納」を一種の技のように使うようにしてしまっている)

たぶん、このことは大切なことだと思います。

植芝盛平さんは「天の浮橋に立って」とか「はじめから勝っている状態(私=宇宙)である」というような言い方をされていたそうですが、このこと(まず状態ありきということ)だろうと私は推測します。

「~して調和する」ではなく「調和という私(何か)が~する」

おもしろいのは、おそらく平井先生もこの考えだったということです。
平井先生はまず境地(状態)から出発するという方法を採用していたということです。
一般的には「~をしてある境地に達する」という方法を採用していると思うのですが(推測ですが)、
平井先生は「宇宙=法則=腰回りであるところの私(何か=無心)が~する」という稽古方法を採用していたというとこです。
「調和である私が~するとどういう調和なことが起こるのか?」という形での学び方を採用していたようです。
調和な存在だとしても、技術的うまい下手、熟練未熟は当然ありますが、まずは状態(being)ありきで、そこからスタート(=ゴール)して武道的所作を学ばせていたようです。

さらに面白いのが、
今のうちの合気道無元塾では毎月講習会を開催しているのですが、そこで最初に稽古に臨む心構えとしてoshoさんという方の「曖昧な好奇心」という文章を読むのですが、内容がまさにこのことなのです。
私の勝手な解釈ですが、そのなかでoshoさんは自分の状態を無視していくらdoingしても求めるものは得られないですよといっています。この態度をoshoさんは曖昧な好奇心と表現されています。
そうではなく、まず状態(being)ありきだと。
それをoshoさんは「道は開けている!そう確信することだ」
「最初の段階から”最良の考え”で臨むべきだろう。その最良の考えを持つことが意味を成す」
「”最良の考え”で臨む!これがあなたの出来ることだ」等と表現されています。

だから、最優先にすべきは自分を整えること。自分を整えるとは状態を整えること。

状態を整えるとはどういうことか?ですけれど、
そのヒントは「全体」とか「円満」だろうと思っています。

人はもともとすべてのエネルギーを持っている存在だという話があります。
自分の星座は~座といいますが、あれは「私」という意識を持ちやすくするために特徴づけるためにその星座の傾向が強いということで、本来的には誰でも12星座(エネルギー)を全て持っているという話です。
チャクラと言った時もすべてです。フルスペクトル。
五行の木火土金水でも同じです。すべて兼ね備えている。
易の乾・兌・離・震・巽・坎・艮・坤でもすべて。
これらはエネルギーの傾向を分析したもので、本来はそのすべてのエネルギーを持っているというお話しだそうです。

そのすべてのエネルギーがある状態を「女=アマ」(being)といい、その無限の可能性から何かしらのエネルギーを選び出して使うというのが「男=サヌキ」(doing)だろうと。

こういう話をするとdoingを目の敵にしてしまいがちですが、あんがいそうではないんじゃないかと。

beingは大事だけれども、それだと可能性のままなのでdoingしないと表現として現れない。
でも、doingはすべて揃っている(調和)しているものから何かを選択することですから(不調和)、doingすればかならず傾きます。
じゃあどうするのか、そこで「中心帰納」ということになるのだろうと思います。

意図する、表現すれば(doing)傾く、その度に自己修正、本来の自分(being)に戻る。

傾くことを拒むのではなく、すれば傾くのだからそしたら自己修正=中心帰納すればいい。
実は宇宙の姿というのは傾いては戻り傾いては戻るということで動き続けているのではないかと。これが渦であり、腰回りなのではないかと。

実際、宇宙というのは調和と不調和を繰り返しているというのが常態なのではないのかなと。
傾くのは当然で、そこで戻るというのが大事なのではと。
そうやって進化成長をしているのではないかと。

そして調和と不調和を表現できるということは、その前提に大調和(カム)があるのだろうと思うわけです。(それを人は愛と呼ぶんだぜ)

いろいろいいましたが
簡単にいうと、beingにも意識を向けましょうという話でした。