「中心帰納」の考察

女性性をbeing、男性性をdoingというお話を前にしましたが
あらためての勝手な解釈。

beingとは存在の仕方、在り方であり、どういう状態であるかということ。
doingは何かをするということ。

優先すべきはまず、在り方、状態を整えること。

よくいわれる「どうしたいか?ではなく、どう在りたいか?」というものです。

状態(being)の方が先。
自分という存在がどういう状態なのかというのが先なのです。
「無対立である」とか「調和である」とか「幸せである」という状態の方が優先されるのです。

「~をするから幸せになれる」ではなく「幸せな私が~をする」という感じです。

受け入れる、一体になるという時も厳密には
「~をして一体化する」とか「~を受け入れる」ではなく
「一体である私(何か)が、調和である私(何か)が~する」という感覚なのです。

今の状態(being)が現象に反映されてしまうのです。
つまり「~して一体化する」では、一体化をしなければ一体ではないということなので、状態としては相手と分離している状態です。
だから、状態が現象に反映されますので、分離している状態のままの自分が何かをやろうとしても世界や相手と分離した現象しか現れてきません。
そしてやりがちなのが、ここ(自分の状態、being)を見ないで、力やスピードや思考(doing)で解決しようとしてしまうことです。
そこ(自分の状態)を見ないで何をやろうとも(力やスピードや思考を使ったとしても)、分離した状態では分離した状態のものしか現出しません。
「入り身」といわれる現象もこの感覚がわからないと出来ないと思います。
入ろう入ろうとしても(doing)出来ないのです、もともとの自分が分離(being)の状態でいたのでは。

「中心帰納」とは本来の自分に戻るという解釈ですが、戻るべき自分の状態を整えていないと効果が現れないということになります。

戻るべき自分というのが、「調和」であり「喜び」であり「安心」であり「幸せ」という存在であるということを思い出し、自覚する。
その自分に戻る=中心帰納
「私という存在が調和ならば、私のすることはどうやっても調和なことしか起きない」
「私という存在が幸せならば、私のすることはどうやっても幸せなことしか起きない」
という具合。
これが私の「中心帰納」の解釈。
(うまくいかない場合を思い返すと、自分の状態が分離、対立の状態であり、「中心帰納」を一種の技のように使うようにしてしまっている)

たぶん、このことは大切なことだと思います。

植芝盛平さんは「天の浮橋に立って」とか「はじめから勝っている状態(私=宇宙)である」というような言い方をされていたそうですが、このこと(まず状態ありきということ)だろうと私は推測します。

「~して調和する」ではなく「調和という私(何か)が~する」

おもしろいのは、おそらく平井先生もこの考えだったということです。
平井先生はまず境地(状態)から出発するという方法を採用していたということです。
一般的には「~をしてある境地に達する」という方法を採用していると思うのですが(推測ですが)、
平井先生は「宇宙=法則=腰回りであるところの私(何か=無心)が~する」という稽古方法を採用していたというとこです。
「調和である私が~するとどういう調和なことが起こるのか?」という形での学び方を採用していたようです。
調和な存在だとしても、技術的うまい下手、熟練未熟は当然ありますが、まずは状態(being)ありきで、そこからスタート(=ゴール)して武道的所作を学ばせていたようです。

さらに面白いのが、
今のうちの合気道無元塾では毎月講習会を開催しているのですが、そこで最初に稽古に臨む心構えとしてoshoさんという方の「曖昧な好奇心」という文章を読むのですが、内容がまさにこのことなのです。
私の勝手な解釈ですが、そのなかでoshoさんは自分の状態を無視していくらdoingしても求めるものは得られないですよといっています。この態度をoshoさんは曖昧な好奇心と表現されています。
そうではなく、まず状態(being)ありきだと。
それをoshoさんは「道は開けている!そう確信することだ」
「最初の段階から”最良の考え”で臨むべきだろう。その最良の考えを持つことが意味を成す」
「”最良の考え”で臨む!これがあなたの出来ることだ」等と表現されています。

だから、最優先にすべきは自分を整えること。自分を整えるとは状態を整えること。

状態を整えるとはどういうことか?ですけれど、
そのヒントは「全体」とか「円満」だろうと思っています。

人はもともとすべてのエネルギーを持っている存在だという話があります。
自分の星座は~座といいますが、あれは「私」という意識を持ちやすくするために特徴づけるためにその星座の傾向が強いということで、本来的には誰でも12星座(エネルギー)を全て持っているという話です。
チャクラと言った時もすべてです。フルスペクトル。
五行の木火土金水でも同じです。すべて兼ね備えている。
易の乾・兌・離・震・巽・坎・艮・坤でもすべて。
これらはエネルギーの傾向を分析したもので、本来はそのすべてのエネルギーを持っているというお話しだそうです。

そのすべてのエネルギーがある状態を「女=アマ」(being)といい、その無限の可能性から何かしらのエネルギーを選び出して使うというのが「男=サヌキ」(doing)だろうと。

こういう話をするとdoingを目の敵にしてしまいがちですが、あんがいそうではないんじゃないかと。

beingは大事だけれども、それだと可能性のままなのでdoingしないと表現として現れない。
でも、doingはすべて揃っている(調和)しているものから何かを選択することですから(不調和)、doingすればかならず傾きます。
じゃあどうするのか、そこで「中心帰納」ということになるのだろうと思います。

意図する、表現すれば(doing)傾く、その度に自己修正、本来の自分(being)に戻る。

傾くことを拒むのではなく、すれば傾くのだからそしたら自己修正=中心帰納すればいい。
実は宇宙の姿というのは傾いては戻り傾いては戻るということで動き続けているのではないかと。これが渦であり、腰回りなのではないかと。

実際、宇宙というのは調和と不調和を繰り返しているというのが常態なのではないのかなと。
傾くのは当然で、そこで戻るというのが大事なのではと。
そうやって進化成長をしているのではないかと。

そして調和と不調和を表現できるということは、その前提に大調和(カム)があるのだろうと思うわけです。(それを人は愛と呼ぶんだぜ)

いろいろいいましたが
簡単にいうと、beingにも意識を向けましょうという話でした。

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