和合

合気道をやっている時の感覚を考えてみます。

武道で目指している境地は「無」であるというのは、ほぼほぼ皆さん賛成であると思っています。
おそらく異論はないと思います。(…勝手にですが)

では「無」とは何かですが、これはおそらく自我意識からいっての「無」であるという意味だろうと思います。
平井先生は「無」とは何もないということではなく、”それ”自体であるという表現をされています。

“それ”とは宇宙を創り出している見えないハタラキ(≒無意識)であり、それはまた自分自身でもあると言っています。

だから私は武道で目指しているのは「自我を超えよ」ということだろうと思っているのです。

そして、ポイントとしては自我を確立したのちに、自我を超えるというところにあるのだろうと思うのです。

「無」と表現されている感覚が自我意識がないということだとすると、「死」とは簡単に言うと自我意識がないという状態です。

ポイントとして自我が確立したのちということとしているのは、このためです。
「自我を超える」というニュアンスには二つの方向性があるということです。
①自我が生まれる前の状態(原始の状態)になれば苦しまないなどの理由による自殺というような「死」の方向。後退。
②今までの「わたし」という感覚(自我意識)とは違う、「わたし⇔あなた(宇宙)」という形での「今までのわたしの死」という方向。成長。

武道で目指すのは②の方向です。
だから、この方向を「生きながらにして死の世界に入る」や「無意識(=死)の意識化」という風に表現する人もおられるのだろうと思うのです。

この二つの方向をしっかり意識しないといけないと思っています。
昔の方がよかったといって原始生活に戻るというのはどちらの方向なのかということです。
②は確かに険しいとは思いますが、難しいことではないと思っています。
稽古時にもよくあるのですが、うまくいかないというのは難しいのではなく「新しいから」だということです。
このニュアンスはちょっとしたことかもしれませんが、私は大事にしています。
心の向きが結構違うのです。
これだと失敗が失敗にならないのみならず、経験値になるのです。

【日本語にはいわゆる主語といえるものがないと言われています。これは日本語を使う人の意識が物と精神を同一のものと扱っているためだと言われています。「もの」という言葉を使う時に、物体として「もの」と使う時もあるし「何者だ!」や「ものごころ」「物思いにふける」「もの悲しい」という風にも使うところに現れていると言われています。
で、主語を一番強調して使うのが英語である言われるのですが、実は古い英語は主語がなかったそうです。主語、主語と言い出したのはキリスト教が広まってからという話を聞きました。
これらのエピソードから推測すると昔の人は今のようなハッキリとした自我意識を持っていなかったということ。
ここに、わざわざはっきりとした自我意識をもったというところに私は何か必然性を感じてしまうのです。
超古代の人(?)は今の人より松果体(第三の目とも言われる)が頭の上部に出ていて、自然や宇宙との繋がりが強かったそうです。現在の人は松果体が頭の中まで引っ込んでしまい宇宙との繋がりが太古の人たちより感じにくくなっており、その代わりに思考力を獲得したと言われています。
だから、ここに必然性を感じるのです。
よく太古の人のほうが感受性が優れていて自然と一体だった、それに比べて今の人は退化してしまったと捉える方がおられますが、そうではなく「あえてそうした」というのが真相なんじゃないかと私なんかは思っておるのです。つまり、太古の人が今の人達より自然や宇宙との繋がりを感じていたという感覚と
これから我々が獲得する自我意識を持ったのちに自然や宇宙との繋がりを取り戻したときの感覚はまるっきり別物であるということ。
同じ繋がりと言っても深さが違うのだろうと思うのです。
このことは、 武道でいう「赤子のこころ」と一緒だろうと思うのです。
「赤子のこころ」というのなら赤ん坊のままでいいのかというと、そうじゃないですよね。 ということは、実は宇宙というものは後退というものはなく、つねに「進歩発展している道中」であるということです。
「宇宙の進化、惑星進化という大きな物語」があるとすれば、我々というのはその過渡期であり且つ最先端にいるということです。】

だから私は自我を確立してのちに自我を超えるというのがミソになっていると考えるのです。
では、どうやって②の方向に向かっていくのかですが、稽古時の感覚からの推測です。

自我意識が何をベースに作られているのかということです。
自我意識(わたし)という感覚は「わたしではないもの」という感覚(否定が先行している状態)をもとにして獲得しています。
「わたし以外」という感覚が強まれば強まるほど、それによって「わたし」という感覚も強く感じられるのです。
自我意識というものは、否定と分離によって成り立っているというこです。
だから、自我意識(≒顕在意識)が強まれば本来は自分自身であるはずの自分の中の深いところにある潜在意識(=無意識の欲望や本音や美徳)を他者の理解できない言動や認めたくない性質など(自分とは違うもの=「あの人とは違う」や「ああなりたい」)として認識してしまうのだそうです。

で、この感覚が広大な世界、宇宙の中にちっぽけな「わたし」という感覚を作り出すのです。
「わたし」とは関係なく世界が存在しているという感覚。
時間と距離に囲まれた均一なだだっ広い空間に物質がある、「わたし」がいるという感覚。
これが武道でいうところの分離感覚だと私は思っています。

この感覚をもとにして(自我意識をベースにして)思考すると「観測者としての私」と「対象物」という関係(分離)を作ります。
この状態のままいくら思考しても、対象物として思考している限り分離させているということになるので、何も変わらないのです。
このことは武道では特に戒められていて「分かっては駄目だ」という表現で伝わっています。

また、武道ではよく「見るな」と言われます。
これも肝だろうと思うのです。

見るということで、対象物と観測者という関係を作ってしまうのです。
だだっ広いのっぺりとした3次元空間があり、その中に「私」という個体と「対象物」という個体があるという感覚になり、「私」と「対象物」の間に距離を設定してしまい、つまり分離してしまいます。

稽古ではいかにして対象物としてみないかということが課題になります。
それが「受け入れる」や「自我を捨てる」、「感じなさい」という表現で言われているのだろうと思うのです。

対象物として思考をしない。
それとは違う思考。
“それ”自体になるというアプローチの仕方。体得。

植芝盛平さんは「全身の血液で考えてきた」という表現をされたそうです。

これが「無」であり、分離ではなく和合(瞬間ではなく過去未来がすべて畳み込まれている無時間という時間という意味での今=自己=失われた半身=あなた=君、を取り戻す)なのだろうと思うのです。

おそらく、この時に「世界のはじまる位置」、「宇宙の起点」としての「わたし」が起ち上がってくるのではないのかなと。

ゆえに、母体武道であり創造武といえるのではないのかなと勝手に思っているのです。

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