気づきと反省

最近、自分の表現がちょっとは出てくるようになってきた感じがします。
まだまだ未熟であり、通過点の一つなのだろうとは思うのですが。

そこで感じているのは、武道とは和合なんだなということです。
武道を今はこの切り口で考えています。(人それぞれの切り口があるとは思いますが)
そして、この表現をどんどん柔らかくしていき円和というところに持って行きたいなと思っています。

和合というのは今の私の解釈でいくと、丁寧なコミュニケーションをとるということになります。

その考えにたつと、整っているというのは相手の呼びかけに瞬時に応える準備が出来ている状態ということになります。
準備が出来ている状態というのは、ただ相手の出方を伺っている状態ではなく、こちらから呼びかけている状態があるということです。
まず最初に「あなた」という呼びかけがあるのです。
その呼びかけに対して相手が返してきた反応に全身で受け取り即応える。
この時の感覚は閉じた個体同士の「あなた」と「わたし」ではなく、「あなたとわたしの中間的な何か」という感覚なのです。

そして「呼びかけ」というのがキーポイントで、
人と人が出会い、ただ挨拶するだけでは呼びかけにはならないということです。
単純に「おはよう」「こんにちは」だけではただ音を発したというだけになってしまいます。そのなかに「あぁ、あなたに会えてうれしい」とか「顔も見たくないあっちに行ってくれ」というような【関係性に対して】の意志や希望がないと呼びかけにならないということです。
相手との関係性に働きかける何か、関係性を変容させる何かがないと呼びかけにならない。

またおもしろいのが、呼びかけが成立するには、誰に呼びかけようかと人を選んで(対象物化して)から呼びかけようとするとうまくいかないというのがあります。

『相手を選び、それに声を届けようと身構えるということは、相手を客観的な対象物と化すことであり、相手と自分の間に客観的な距離を設定することである。それを越えて声を届けても、それはいわば物理的な音波であって、人間的な「触れる」行為にはならないだろう。』
(竹内敏晴 著 「からだ」と「ことば」のレッスンより引用)

竹内敏晴さんは別の例えで、チラッと好きな人を見つけとっさに呼びかける時というのは、相手との距離はどのくらいだからこのくらいの大きな声を出さなくてはとかは考えていないだろうと。
その時は、からだ全体がはずんで、いきなりほかの世界は全く消え去り、ただ相手の人ばかりが目の前にあって、それにからだ全体で飛びかかってゆく――それは客観的に間隔が五十メートルあろうとも、すぐ目の前にいる相手にとびつくのと同じことだとも言っていて、
「話かけるとは、距離がゼロになることにほかならない」と。

どうですか?

これらのことから、「合気道の在り方=人と人が出会う在り方」という図式が見えると思うのです。だから、丁寧なコミュニケーションが和合であると考えるのです。
脚下照顧。
足下に極意がある。
基礎的なことであると同時に極意でもあるということなのだろうと思うのです。

稽古時によくあるのが、相手の攻撃してくる手などの相手の部分だけを見て、相手自身の存在を見ないということ。
相手の何かしらの気持ちや想いを受け取らずに、型稽古の形を思い描いたりして次に何をしようかと思考を働かせて相手を無視してしまうこと。
ひとつの系として「あなた」と「わたし」があり、お互い影響しあっていて通い合っているものを、「あなた」という個体と「わたし」という個体があるという感覚でぶつかってしまうこと。

合気道とは
人と出会うということ、他者(あなた)と出会うということ、人と人が向き合うということ、他者(あなたのあなた)として出会うということ。


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