ここ最近特に大事だなと感じていること。
それは「礼」を失しないということ。

いわゆる礼儀作法といわれているものを私は知らないのですが、
あくまでも私の感覚を表現するところの「礼」を失しないということです。

言葉を変えれば「大事にする」ということであり、
「敬う」ということです。

それはすべてのモノに対してです。
もの、とき、ところ、すべてに対してです。

例えば、戦国の世にあって名将と言われた人達は敵であったとしても味方であったとしても、戦死者に対して敬意を表して丁重に弔っていたそうです。
たまたま意見が合わなかったりして、たまたま争う関係になって結果的に殺す殺される関係になったのだけれども、
それでも相手に対しての敬いは失わなかった。
この感じが「礼」を失しないという感覚です。

うちの合気道には「写す目」と言われている感覚があるのですが、まばたきをしないということでもあるのですが、これを平井先生は相手に対して礼をつくすことだという武道的意味があるのだと言っていました。
たとえ相手を切り殺すことになったとしても、まばたきせずに目を見開いたままの「写す目」でいることは殺した相手に対して礼を失しない態度であると。
殺す殺される関係になったとしても相手に対して敬意を失うなと。

また、場所に対してもです。
我々が物質としての物を見るとき、ただ単独に物というものは存在していませんね。
そこにはかならず空間が伴っています。
空間無しに、単独に物だけという存在はありません。
つまり、おおざっぱに言うと空間の方が主体ということです。
ここに場を掃除する、場を整える(=自分を整える)ということの意味が出てくるのです。
場に対しても「礼」を失しないということです。

そして、自分自身に対しても「礼」を失しないということです。
稽古は大体うまくいかないことの連続ですが、
そのたびに「私なんかが・・・」とか「私はなんてダメなんだ・・・」
というように理想(幻想)に対して自分をジャッジして減点していったんでは
続くものも続きません。
これは明らかに自分自身に対して「礼」を失している態度です。
自分自身に対して敬意がなく、自分自身を侮っている態度です。
うまくいったとしても、うまくいかなかったとしても、それはそれとして過大評価も過小評価もしない。
ただ事実を認めるだけ。
私は自分自身に対しても「礼」だけは失しなわないように気を付けています。
ただ、そこには嬉しいとか悔しいとかの感情はあります。
そう、湧き上る感情に対しても「礼」を失しない。(大事にする、敬う、無視しない)

よくあるのが、湧き上ってくる感情、感覚を無視してしまうことです。
入り身をするときに臆し心があっては駄目だと言われているので、切りかかってくるものに対して恐怖心を出しては駄目だということで、恐怖を感じているのに感じてない風を装ってしまいがちになってしまいます。
恐いという反応が出るというのは危険な状況にいるという身体からの正しいシグナルなのでありますから、まずはその恐いという感覚を認めないと(無視しない=礼を失しない)先に進めません。
相手の攻撃線に対して自分の芯を晒しているのですから、当然身体からは恐いという感覚が出てきます。
(じゃあどうするんだと言った時に、うちの合気道には「すれ違い」や「円満」「360度の法線」「写す目」「受けて樹つ気」「回る間合い」「一回り三寸」「中心帰納」「腰回り」というようにふんだんにヒントとなる言葉があります。)

以上のように、私の「礼」を失しないという感覚はこういうニュアンスです。
最低限、「礼」を失しないようにしようと思っています。

これは目の前のことを大事にする(無視しない)ことでもあります。
目の前の人を大事にする(無視しない)ことでもあります。

「中心帰納」と言った時に、自分を整えるのですが、それは決して目の前の人を無視したり、蔑ろにすることではありません。
やろうとするということは「思考の世界」に行っていることで、目の前の人を蔑ろにしていることなのです。
「礼」を失しないというのは「今ここ」にいるということでもあります。

「礼」を失しないというのは、うまくいくうまくいかないなどの外の基準で自分を採点しない態度ですから、無理にポジティブシンキングすることもなく、自己卑下や自己否定することもないので、軸がぶれません。だから自分自身や宇宙に対しての「信頼」に繋がります。
また「感謝」というものにも繋がっていきます。

こういう感じが武道で学ぶ「礼」という感覚なんじゃなかろうかなと思ったわけで、この感覚が土台にないと武道が成り立たないのではないかと
思ったり思わなかったりしたのでした。





志村、ウシロ!ウシロ!

武道的に求めている境地はもうわかりきっています。
みんな口をそろえて言っています。
「無」であると。

また陰陽、火水、虚実。
万物流転、円転無窮であると。

これらのことは誰もが知っています。

じゃあ、なぜ表現として現れないのかということです。

おそらく解釈、捉え方が不十分なんだろうと思われます。

陰陽、陰陽というのですが、
じゃあ、改めて「陰」とはなんですかというところだと思います。

○勝手に解釈。
陰と陽と並立的に記述されるので陽の反対が陰だなと解釈してしまいます。
押せば引け、引けば押せという言葉がありますが、
厳密に言えばこの対応は実はプラスの陽に対してマイナスの陽で対応しているので、
実は陰と陽になっていない。

男性という個体と女性という個体があるので思わず、並立的に考えてしまいがちですが
「陰」と「陽」、「男」と「女」、「太陽」と「月」といったとき
それらは実は立体的な関係性なんじゃなかろうかと思うわけです。

1:1という関係ではなく、
顕在意識(陽):潜在意識(陰)=1:9のような関係。
または複素空間における実数(陽)と虚数(陰)の関係なんじゃないのかと。

そのヒントとして、ウシロという感覚を考えてもいいのではと思った次第です。

これは背後ということではなく、目で見ることができないウシロという感覚です。

背後は後ろを向けば見えます、けれどもそれはもう後ろではなく前ですね。
どんなに速く首を回しても決して見れないウシロという感覚。
言ってみれば永遠の謎です。
しかし、それは生まれてこの方ずっと寄り添ってあるものでもあります。

この感覚が無意識という「陰」に近い感覚じゃないかなと思ったのです。

背後というのはいわばマイナスの「陽」で、「陰」ではなく「陰っぽいもの」
360度円満といったときは単純に周囲360度だと
厳密には「陽」だけなので、目指しているバランスはとれてないのではないのかということ。
実際の「陰」というのは奥行や深さの方向にあるのじゃないのかなと。
奥行としてのウシロ(陰)というのも含んで円満充実で、
陰陽がそろい「無」にも繋がるのじゅないのかと。

そんなお話し。

勝手にMANDALA

○受けて樹つ気

これは相手が何をしてきてもオッケーですよという気持ち、
ウェルカムという気持ちだと言われています。

つまりは
執着しないということ。
そこには「遊び心」があり、
「余裕」があるということ。

それは何かに偏らないということ。
360度の法線。
四方八方に開いているということ。
オープンマインド。

ここで気を付けたいのが捉われない、執着しないというのは
無視するということではないということです。
蔑ろにすることでもなく、見て見ないふりをすることでもないのです。

私の解釈ですと
捉われない、執着しないためには「大事にする」ことです。
肉体も大事だし、精神も大事、自己意識も大事だし、無意識も大事。
起こってくる感情も大事。
全て大事。
煩悩のあがきも大事ぃ。

何かを軽く見たり、無視しないということです。
評価して、裁かないということ。
「大切にする」ということ。
「敬う」ということです。

「あなた」がしてくること、「わたし」がすることを了とするのです。
(「あなた」⇔「わたし」)

ズレ

合気道をしていて感じるのは、昨今よく言われている「女性性」というものです。

まず、合気道上で言われている「円」や「受け入れる」や「共感」などのキーワードが
「女」の性質を表す時に言われるものと同じというのがあります。

また、具体的な目標を持って直線的に動いてはいけないと言われているのですが
直線的行動は「男」の性質そのもので、
それをしてはいけないと言われているのです。

ほかには「男」の性質は「do」であり「女」の性質は「be」であるなど言われています。それもそのまんまです。
うちの合気道はしないことを学ぶのです。doしない。

「どうしたいか?」ではなく、「どうありたいか?」ということになります。

※注意してもらいたいのは、ここでいう「男」や「女」は性別のことではないということです。
上手い言い方がわからないのですが、それらは宇宙のハタラキの傾向というようなものです。
もちろん、優劣はありません。

そして、ここで気を付けたいのは「男」の性質「女」の性質と並列的に書かれることが多いのですが、並べて対比するような関係ではないということです。

よく言われる例えとして、「女」は舞台設定であり、「男」はそこで演じる主人公であるというものです。
「女」は畑であり、「男」は農夫であるという例えもあります。
「女」は世界そのものであり、体験される世界のことであり、「男」はそこに登場するキャラクター、自我であると。
大宇宙(女)に対する小宇宙(男)。「男」=「女」のアバター。

「女(アマ)」とは可能性のプールで、その中から何かを選んで形にしていくのが「男」の性質。

「男」と「女」と同軸上にあるものと考えがちですが、そうではないのです。
「女」というものは切り分けることができないもの。全体であり。
「男」は個々。
卵子に対する精子の関係。

この関係性なのです。

この関係性で自我「男」が発生していますから、「男」を「女性性に対する道具」と表現している人もおられます。
別の言い方だと「男」とは「女」の願いであると。

だから、この傾向が反映されている「男性」というのは、女性の願いを叶えたい存在なのです。
女性に頼られるだけで喜んじゃうのです。
妻がいつもご機嫌でニコニコしていれば満足してしまうものなのです。
妻に先立たれるとすぐに後を追ってしまうというのは、「男」の存在の仕方がそもそも「女」の願いを叶えるというものということも関係しているんじゃないかと思うわけです。

ここで思ったのが、神話に出てくる話も個々の男性神女性神と想像してしまいがちですが
女性神(妻神)と言った時にはそれを「女」という解釈をしないと
痴話喧嘩の話としてしか解釈できなくなってしまうんじゃないかなと。

神話の話というのは
男性神(夫神)とはいわゆる自我で、その自我が自分の発生の起源を忘れていく話。
自我が自分の出自を忘れる。
「わたしとは何なのか?」「わたしはどこから来たのか?」
自分の出自である「女」を忘れる。
自我「男」にとっての無意識「女」という対応になる。
「女」とは自我が生まれる前の世界であり死んだ後の世界=死
「女」とは自我が明瞭に形を認識する(個々)に対する境界線がはっきりしない(全体)=夜
神話の中で女性神(妻神)はしばしば死や夜などのイメージとくっつきやすいのはこのためじゃないのかなと。
本来はパートナー(失われた自分の片割れ)であったものがいつの間にか忌避するもの、恐れのイメージとくっついてしまった。これが自我意識「男」が過剰になった状態であろうと思うわけで。

その反動として「女」の復活を言われるようになったのじゃなかろうかと。
「女」というものがそもそも自分の出自ですから、わたしはここに「帰還せよ」というメッセージを聴くのです。
そうなのです。
中心に「帰納」するというのです。

つまりは神話で言われていることは「男」と「女」を統合せよというものです。

そしてわたしは合気道というのは「男」と「女」を統合する訓練法の一つであるとにらんでいるのです。
「男」と「女」とは言わなくて、「陰」と「陽」と言ったり、「火」と「水」と言ったりもします。
ちなみに、「火水」と書いて、「カミ」と読ませたり「イキ」と読ませたり「ホシ」と読ませたりします。大空にあっては火水(ホシ)であり、大地にあっては水火(シホ)であるとも。
余談ではありますが、料理というのはこの「火」と「水」を使うのです。うまく統合させるとキラキラサインと言われる輝いて見える料理ができるのです。そしてそれは確実に「おいしい」のです。

合気道では統合とは言われず、和合、和合と言われますが。

合気道の場合はキラキラサインはよくわかりませんが、「ズレ」が顕われます。
この「ズレ」がとても大事だと思っています。

「女」だけだと同じ円環をぐるぐる回るだけのところを「男」が加わることで「ズレ」が発生します。
そうなのです。この「ズレ」がものを変化させる、進化させる螺旋の渦を生むのです。
ここに和合する意味があるのだと思うのです。
「男」と「女」両方いるのです。
和合すると「ズレ」=黄金比φが生まれるのです。

黄金比φとは植物の葉がすべて日に当たるように重ならないように少しズレながら螺旋状に葉をつけていくときに現れるものです。

この少しズレるというのがミソじゃないかなと。
これは噛み合わないとか食い違いというズレではなく、一体でありつつズレていくのです。動的均衡というようなもの。

そして、うちの合気道では一回り三寸と言われているのです。
腰が回ると「ズレ」が現れると言われているのです。
よけたり、避けたりとは違うのです。
この「ズレ」が「開き」や「抜け」と言われる現象を創るのです。

つまりは
「男」と「女」の統合=中心帰納=「ズレ」=黄金比φ=回る間合い=腰回り

宇宙を回し動かしているもの。
火水(ズレ)

日々こういう想いで稽古をしています。

なんとなく感じていること

今回はメモ書きのようなものです。

○中心帰納⇒間が変わる

間=距離という観念から抜け出る

距離のない世界=奥行の世界⇒和合

○想いには距離がない

中心帰納=距離の世界からの脱出⇒檻から抜け出た感覚
(この感覚がクセになる。何とも言えない解放感。限りなく澄んだ感じ)

距離の世界=相対界⇒分離

○入り身とは奥行の世界の住人になること

奥行の世界の動きは距離の世界の目から見えない、捉えられない。
奥行の世界の動きは距離の世界の目からは気付いたら目の前にいたという風になる。「神速」として映る。

距離の世界=技法
奥行の世界=心法

距離の世界=色がある(色はカラーのことではなく、思考の脳波のようなもの。気配)
奥行の世界=色がない。無拍子。

奥行の世界=ベースの世界=普く在る
奥行の世界は全ての世界の底にある下敷きのような世界
全ての前提になっている世界。

奥行の世界は世界に先だってある世界
無限小であり無限大な世界。

それは常に続いて、続いていく。
始まりもなく終わりもない。
円転無窮。

「回す」ではなく「回る」と言っている

最近、成田先生が作った「MANDALA」の自分バージョンを作ろうと思っています。
稽古してきた中で、自分なりの気づきやチェックポイントをまとめることになるので、
考え方の整理にもなるし、つい忘れてしまう大事なことの確認にもなると思います。

そしてこれは常に更新されていくものでもあると思います。

○接触点は動かさない。

私の場合
いろいろやってみて、接触しているところを固めてお腹だけを緩めても上手くいかないということです。
それだとどうしても腕などに硬い感じが残るのです。
しかも、中心の働きが端まで上手く伝わらないのです。影響力が出ない。

じゃあ、どうしているのかというと
確かに接触しているところは動かさないのですが、
接触している部分自体は細かく回っているというものです。
接触しているところでやろうとしないのですが
接触している部分の細胞なり、
もっと小さな腕を構成している粒子は回っているという感覚です。

接触しているところを固めがちなのですが、その状態でもその部分の細胞なりその部分の小さい粒は回っているのです。

そうなんです!
「動かさないのだけれども動いている。」

そして、その体全体を構成している粒がすべて回っているという感覚になると
全体が緩むのです。
それは脱力とは質の違う緩み方なのです。
全体が細かく回転しているので結果的に全関節が緩んだ状態になっているのであって、脱力して抑え込まれるという緩み方とは違う状態なのです。

この感覚は確かに緩んでいるので「脱力」と表現しがちだということがわかりますが、ニュアンスは違います。

前は中心から気のようなものが指先まで流れているという感じで全身がつながった状態を表現しようとしていたのですが、これだとどこかに硬さが出てしまいます。
今は全体がくるくる回っているという方が
全身がつながって、より中心の働きが指先や接触部分に影響が及ぶ感じがあります。
どこかを固めてしまうというのを回避できる感じがします。

そしてこの状態だと引っ付いた感じが出るのです。

ここで考察されるのは回転というのは広がるエネルギーと縮むエネルギーの和合で起こっているものだというものです。
だから、引っ付いたような現象が起こるのだろうと思われます。

つまり、回転、渦というのはただ「回す」というものではなく
やるとやらない、陰と陽、yesとnoというような反するものが一緒くたになっている(和合している)姿なのではないかということです。

すべてひっくるめている状態が「回る」なのではないかと。

回して和合するのではなく、和合した姿が「回る」というのが実際なんじゃなかろうかと。

これらのことでわかったのは、「接触点を動かさない」という一見わかりやすい、意味を取り違わなさそうな言葉の方が、自分の解釈や思い込みが入り込んでしまうということです。
初めっからよくわからない言葉の方がこういうことだと特定しにくいので、自分のフィルターを通してみているのだという自覚があり、自分の偏見に無自覚にはまらないで済むようです。
なまじ言葉がわかっちゃうとわかったつもりになりやすいということです。
その点、合気道は技が掛からないということでそれに気づくことができる利点がありますね。

 

 

中心に帰納するということ

直近の感じ。

それは中心からこんこんと溢れてくるもの。
なにか鉱脈を見つけたという感じ。
己の鉱脈。
源泉の発見。

源。

イノチの源。

無尽蔵の泉。

そこには全てのリソースが在る感覚。
愛も喜びもイキイキした活力も。
こんこんと湧き出している。

意識を中心に戻すというのではなく、
中心がそういうものであるという感覚。

そういえば、

白隠禅師の言葉に、

「我がこの気海丹田 腰脚足心、まさにこれ我が本来の面目。面目なんの鼻孔かある。

我がこの気海丹田 腰脚足心、まさにこれ我が本分の家郷。家郷なんの消息かある。

我がこの気海丹田 腰脚足心、まさにこれ我が唯心の浄土。浄土、何の荘厳かある。

我がこの気海丹田 腰脚足心、まさにこれ己心の弥陀。弥陀、何の法をか説く。」

というのがあったのを思い出しました。

勝手な解釈ですけれども、丹田を中心とすると

「中心とは己の本来の姿。

中心とは己の元、命の親。ちなみに中心を別の表現でhomeということがあります。

中心とは己の自由の世界である。余裕。遊。

中心とは球の理である。その表れを腰回りという。」

どっです?
中心に帰納した姿というのがなんとなく感じられるんじゃないかと思います。

矛盾

矛盾という言葉を聞くと、なんとなく否定的な感じを受けてしまいますが
あんがいそうじゃないかもという話です。

私のやっている合気道は「やろうとしない」ことを学ぶのですが、
だからといってなにもしないのかというとそうではないのです。

木剣を持ったとしても木剣を使わないことを学ぶのです。

それは、なにもしないということじゃないのです。
じゃあやっぱり何かしようとするのかというと、
そうしますとぶつかってしまうので、
やっぱり、なにもしないのです。

なにもしないのですが、何かするのです。
何かするのですが、なにもしないのです。

...。

「マクベス」に出てくる魔女みたいですね。
「きれいはきたない、きたないはきれい」

合気会に谷本館長という方がおられて
その方の表現に「合気道はyesとnoを一緒にする」というのがあるのですが

そんな感じなのです。

理屈としては矛盾しているようですけれども(これは自己意識では出来ないということを意味して、説明ができないということでもあります)、
身体は平気でその矛盾を同居させるのです。

この状態を観察してみますと、「矛盾してんじゃん」という感じではなく
動的状態だということが感じられてくるのです。

逆に、具体的に目標を決めて何かしようという時は(矛盾していない状態、yesかnoかの状態)、
固まっていると感じるのです。

つまりは、矛盾を同居させている状態というのは
動的状態であり自然の常態であると。
ゆえに、止まることなく進化変化している⇒円転無窮であると。
これが武道的表現の「動」というものだろうと思うのです。

ということは、我々というのは矛盾した存在ということになりますね。
そっゆこと。

永遠的無限的存在であると同時に限定的存在であるということ。

イノチの永遠性だけを説いても駄目だし、唯物論的に説くのでも駄目なのです。
もっと多義多層な存在なのです。

普通なんだけれども唯一無二な存在

可能性を信じると同時に今のそのままをも愛している。

「同じだけど違う、違うけど同じ」

悩んでおります。

あいかわらず、腰でとる、相手との繋がりが上手く作れない。

特に片手取の時がしっくりこない。

なんでかなぁ~、なんでかなぁ~(チコタン風)

相手の来るという気持ちに和合する。
相手が手を取りに来たとしても、相手は無意識に私の「シン」を攻めてきている。
で、こちらの「シン」が自由に動いていれば腰回り(回る間合い)が顕われて、相手はこちらの「シン」を捉えることが出来ず(間合いが変わり)、乱れ崩れる。

と、考え方はわかるのだけれども、うまくいかない。

稽古をしてわかったことは、
相手の来るという気持ちに和合しますので、相手の来るという気持ちがないと上手くいかないということ。

上手くいかない片手取のことを考えてみますと、
無意識に相手はこちらの「シン」を狙っているとはいっても、相手の気持ちがしっかりこちらの「シン」に届いていないのではないかということです。

考えられるのは、意識ないし気持ちが途中で止まっているのではないかと。
ただ握るという風になっていて、相手の意識がそこで止まっている。
本来ならば、握るという行為により相手の中心に働きかけて、相手を制するなり抑え込むようにするところを、ただ手を取る・握るということをやっていて、気持ちがこちらの「シン」に届いていないということ。
まあ、これはあまり関係ないかもしれません。

それよりも、相手の気持ちがこちらの「シン」に届いていないのは、私が途中で止めているのではないかということです。
握るにしろなんにせよ、相手の気持ちは来ているのですからそれを自分の「シン」までちゃんと導く、道を開くということが大事なんじゃないかと。

その視点で観察してみますと、たしかに閉じている感じがあるのです。その状態でいくら姿勢を正して気発ぅ~とやってもうまくつながらないのです。
それよりもこちらを開いて相手の気持ちがこちらの「シン」にちゃんと届くようにすると、つながるのです。
相手の気持ちがこちらの「シン」に入ってくるように道を作ってあげる方がいいようです。

ここの合気道はシモクの構えで15度ほど開くのですが、ちょうどそのように道を開けるのです。
「殺す~」にしろ、「好きだ~」にしろ気持ちが来ないと和合できないのです。
相手の気持ちがこちらの「シン」に来てくれるから、和合が出来て、こちらの「シン」の働きが相手にも影響を及ぼすのです。

あぁ~、これが上手くいくといいな。

私のアプローチの仕方

ここの合気道の考えを理解しても、じゃあ出来るようになるかというと
さにあらず。
言われていることは、わかるんだけれども
じゃあどうやったら実際に効果が表れるようになるのか?
そこは、稽古を通して学んでいくのですが。

ここの合気道で言われている「写す目」という状態は、それぞれの武道でいろいろと表現されています。
「観の目」やら「遠山を見る如し」とか「目の奥、後頭部でみる」など…。
それらの一つに無限遠点を見るという表現があるということを知ったのですが。

その時、フッと思ったのですが
われわれが求めている状態というのは、無限遠点を見るということではなく
表面的な自己意識ではなく、もっと奥といっていいのか
「存在」そのものをまず、無限遠点に立たせるということで達成されるのではないのかということです。

「存在」そのものが無限遠点に在るとするならば、おのずと己の視界は無限遠点からの視線ということになります。

「わたし」というのを固定したまま、意図をもって自分の能力(筋力や動体視力など)を使って、無限遠点を見るということではなく(これだと「わたし」と「見る」が分離している)、
「わたし」という存在がすでに無限遠点という立ち位置に在ることで、
視界が「存在」と分離することなく、見るという意図なくして、
結果的に無限遠点から見ている(無限遠点を見る)という状態を作り出せる。

こちらの方が求めている在り方(存在の仕方)に近いんじゃないかと思ったわけです。

まず第一に「存在」の立ち位置を決める。別の言葉で言えば、想いを整える。

ここの合気道は「想い」を表す武道であると言われています。

自分の「余裕」そのものに、自分の「自由」そのものにと言われています。
「無」というのは、なにもないということではなく、それそのものになりきっている状態だと言われています。
自分というものを変えず固定したまま「余裕」や「自由」というのを表現するのではなく(分離)、自分の「存在」の立ち位置を決めることを通して「そのもの」になるというアプローチ。
・・・植芝さんの表現に「まず、天の浮橋に立って」というのがあるのですが、このことを言っているのではないのかと。

中心軸をまっすぐにすると言った時にも、体をまっすぐにするよりも、
まず、「存在」の仕方を整える。
「存在」自体を天と地を結ぶ垂線であるという存在の立ち位置に立たせる(想いを整える)。結果、身体表現もまっすぐな軸を保った姿勢になる。
想い(無形)が先で、身体遣い(有形)もそうなるように、気体一致するように稽古を進めていく。

これだと「考え方」=「意識の在り方」=「存在の仕方」となり、
考え方はわかるんだけれども表現が一致しないということがなくなり
理事一致を達成できるんじゃないかと。

そんなことをフラフラと考えたのでした。