再び素直についての考察

「受け入れる」という言葉を聞いた時、何かしらの私の偏見が入っている。
こういう自覚がないと、言われていることをちゃんとしているのに出来ないということが起こる。
「一生懸命やっているのにっ」ってなことに。

以下、私のはなし(仮説)。感覚で受け取ってください。すいません。

「受け入れる」という時にやりがちなのが、実数上でのことで対処してしまうことです。実数上のプラス、マイナスの調整で受け入れるということをやってしまいがちなんです。
それだとどうしてもうまくいかない。押してもだめだし、引いてもだめ。じゃあ回しても、だめ~。円を描くといっても実数上ではだめなんです。
八方ふさがり。

どうにもならない、しかしここを実数と虚数の組み合わせにする。
すると腰回りが現れる。

自分を殺して相手に合わせるわけでもなく、相手を抑え込むでもなく、かといって何もしないんじゃただ打たれる。これが実数上のプラスマイナス。
お互いが依存している状態で、お互いが持たれあっていて苦しい状態。ぶつかっている状態。

実数と虚数の直交状態は、ぶつかっていない状態。つまり相手も活きて、自分も活きている、お互いが活かしあっている状態。自分が相手の虚数(ポテンシャル)の関係になっているまたは自分が実数で相手が虚数。自立している状態。
この関係の時に腰回りという求心的渦が発生する。

うちの合気道は連続球、無限に球を連ねていくことを目標にしています。円転無窮と言っていますが、その鍵が素直と言っています。

つまり、常に実数と虚数の直交関係をつくり、渦(球)を創り出していく、
常に相手も活き自分も活きる関係を創り出していく、その関係を立体的に無限に連ねていくことを目指している。

言葉にするということ

言葉にしたものを聞くとそこには必ず、自分の解釈、偏見、イメージ、ニュアンスなどが入り込んでしまいます。自分というフィルターを通して聞いてしまうということを自覚していなくてはいけません。

言葉にするということは、全体(闇、無意識)から何かを選ぶ(光、意識)ことになり、そこには必ず拾ったものと捨てたものができる。
どうやったってそのもの自体を100%言うことができない構造になっています。
だから正しい正しくないということはナンセンスだということが言えます。
どんなものも一部は言いえているけど一部は言いえてないという構造になっていますから。
ただ自分のフィルターを通した解釈は期間限定的で地域限定的なもの、一時的なものであるということには自覚的でいましょうと。

変化、変容が自然の姿なので、「わかったつもり」になるということは変化をしないともいえるもので、ここは気を付けたいところですね。

ということは行間を読む、言葉にされなかった言葉を聴く、表現されなかった表現を観るということも大事になるんだと思います。

ここのところは平井先生は徹底していたらしく、「外に現れた姿で説く武道はない」とおっしゃっていたり、著書も残されていませんし、先生の言葉をメモしようとしたら「書きなさんな」と不愉快な顔をされて「聞いておけばいい、そして忘れなさい。ちゃんと身体が覚えてくれている。自分がその段階に至れば、自分のものとして自分の言葉として口を衝いて出てくるものだ」と言われたそうです。
無の時に師から弟子に伝わるとも言っています。

…それにしても、「聞いておけばいい、忘れなさい」という学習方法はいいね。

 

言葉に対して必ず自分の解釈が入ってしまう。
しかしその解釈はいつでも変化可能ということを自覚しておけば決して悪いものではなく、私はそれこそが宇宙の豊かさを担保しているものだと思います。

ひとりひとりの解釈があるということは、一義的にしない(正しい正しくないをしない)ということ、つまりひとりひとりの世界観があるということ。
ということはひとりひとりが特別であるということ。
ひとりひとりが唯一無二だということ。
誰もが「平均値」から大きく外れているということ。
「その他大勢」というものがないということ。

それは宇宙の豊かさ。
自分の見ている風景を伝えること、他者の見ている風景を聞くこと。
それは自分の知らない自分(あなたというわたし)を知ること。

 

素直

平井先生の言葉で私の好きなものの中に
「技法に真髄無し 真髄は円和の素直にあり即ち心にあり」
というのがあります。

武道をはじめるには遅い年齢かなと思っていた私は、これに救われています。

しかし考えてみると、武道が単純に殺しの技術であり、生き延びる術だとすると
その術を高いレベルまで習得するのに長い年月を必要とし老年にならなければ高い境地に達しないとすると、矛盾が生じますね。
生き延びる術を習得するのに長い年月をかけて、ある程度の完成を見せた時には
「おい、もう十分生きてんじゃん!」ということになりますね。

ということは、普通に考えて武道とは生き延びる術というより、生き方在り方であると。のびのび、イキイキ、自分らしく生きる術だということになりますね。
そして、うちではそれを「創造武」といっているのです。

素直それは実数と虚数の直交。太陽と月のハーモニー。これが”合う”ということの本質的意味。そこに球転が生まれる。

 

武道とは即興歌のようなもの
男でもあり女でもある”わたし”の響き合い、自己であり他者でもある”わたし”の響き合い、太陽であり月でもある”わたし”の響き合い。意識と無意識との響き合い。
一期一会のライブセッション。

自己滅却について

「自己滅却ってどう?」
「どうといわれましても…」

ヒントは日本語でした。
私たちが日頃使っている言葉や文章に、主語(わたしは~)って使っていませんよね。
そう、主語を言わなくても成立してしまえる。

これって言い換えれば主語がいかようにも入れ替わり変化しているともいえます。
つまり自己意識の遍在性を意味している。

どうです?

何かをしようとする時の固定点になっている”わたし”という感覚は実はいかようにも入れ替え変化可能ということです。
かつ、なんにでもなれてどこにでもあることが出来る。

自己意識で何かをしようとした時に感じる何か固まったもの=”わたし”を自由にする、どこにでもある(遍在性)状態にする、全部、全てにする。
結果、自己が滅却した感覚になる。
なくすのではなく、全てにする!

 

ここでおもしろいのが、固まった”わたし”を全部にすると”ここ”という感覚が立ち上がってきます。
この感覚がなんなのかわかりませんが、”わたし”というのが”すべて”でありますから移動する必要がないからなのかもしれません。
空間の中に”わたし”がいるのではなく、空間も含めて”すべて”が”わたし”という状態ですから。

おもしろいのがこの時には、相対した相手に対して幅というか距離があるという感覚がなくなります。

固まった”わたし”という感覚だとどうしても、わたしという個体があり、相手という個体があり、その間には距離があり、相手に何か作用させようと思ったらまずその間の距離をつめなければ作用させられないという感じになります。
相手に作用させようとすると、どうしても距離をつめようとしてしまいますから、必ず傾いてしまいます。

でも”すべて”という状態は、全て(自分が捨てたものも選択しなかったことも否定したものも)が在るという状態(スタート=ゴール)ですから距離とか幅をつめるという発想が必要なくなるんだと思います。
なんてったって”すべて”ですから。
だから、傾かない、中心帰納。...あとはこの状態で動けるか。

 

距離をつめる必要がなくなる
”わたし”という何かはすでに”あなた”に触れているのだから

だって”すべて”なんだもん。

 

そんな私のはなし(仮説)でした。

 

円転無窮

この世界の本質は円和流転、とどまることなく続く連続球。

合気道は、幾千万の角度(球転)による自由な対応であると言います。
宇宙の姿を体捌きによって表現するというのが合気道です。

連続球なので、「よーい、スタート」というのがありません。
動き出すときの起動がないということで、武道的には起こりのない動きと言います。
つまり、踏み込んで地面の反動を使った動き、どこかを固めてトルクを使った動きをしないということになります。

また、連続球ということはスタートとゴールがないということです。
別の言い方をすると「スタート=ゴール」ということです。
つまり、厳密にいえば合気道というのは何かが起こってそれに対処する方法ではないということです。
スタート=ゴールということは、今の自分の状態が腰回りという意識外のハタラキによって現象として表現されているということになります!

自分が問題だという意識があるから問題だと思われる現象が起こっているということになります。

うちの合気道は何か問題が起こってそれに対処するということをしません。
先に自分を円満な状態、幸福な状態、豊かな状態、調和な状態にしましょう、その状態の時に腰回りという無意識のハタラキに任せきることによって調和な状況を創りましょうという方法をとります。
だから、創造武というんだと思います。
うちでは中心帰納という言葉を使っています。
自分を整える、自己修正の道ともいわれています。
(これを癒しに使えばセラピーになるとかならないとか)

実は勝負は触れる前についているんです。
これが武道的にいう絶対不敗の状態、”先”と言われている状態だと思います。

もっと別の言い方で表現すると”今の自分が未来を創る”ということになるんでしょうか。

 

円転無窮ということは
常に変化していて、変容し続けていて、瞬間瞬間あたらしく生まれ変わっている。次の瞬間には何が起こっているかはわからない、無限の可能性に開かれてる。決して行き詰まることはない。

なんかちょっといいでしょ。

つぶつぶ

今、合気道と共に学んでいるものに”つぶつぶ”という雑穀、穀物を中心にした料理があります。それについての私の認識を書いてみたいと思います。

簡単に言うと、和食です。
和食というか日本の食文化の本質を受け継いで
現代版に再構築した和食です。結局和食...。

数ある料理法のひとつというより生命現象を見据えた生命科学といえばいいのか
根本料理法というべきものです。

代表的料理に高キビという雑穀を使った、高キビハンバーグというものがあります。が、これは肉の代用品という立ち位置で作られたものではありません。
つぶつぶの立場に立つならば、身体が本来求めているものは良質の塩と油になります。つまり、肉のほうが本来ほしいものである塩と油の代用品であるとなります。
ここでおもしろいのが、肉はダメェ~という対応をしないというとこです。
人類が創り出し経験したことをそのまま否定することなく、その経験を昇華する形で、生命現象にのっとって再構築して高キビハンバーグが生まれたことです。

うちの合気道も今までの武道経験が無駄になるということがありません。腰回りというのは無意識のハタラキですが、そこにはその人の経験したことが組み込まれその人独自の個性となって現れると思っています。同じ腰回りといってもその現れる質感は人によって違うみたいです。
母体武道ですから、ここの考えを元にすれば今やられている武道も昇華する形で再構築できると思っています。
だから、多くの人が腰回りを会得すれば面白いことになるんじゃないかと思っています。

あとつぶつぶでは料理上手は生き方上手とも言われています。

あれ? なんか同じ~。

母体武道、創造武、処世の実学。

人類の共通財産?

うちの合気道はいわゆるセンスや才能とは関係ないとこにあると感じています。

臨機応変に対処しうる腰回りという無意識のハタラキの体得を目指しているんですが、それはもともと自然に備わっているハタラキなんだそうです。
しかも平井先生は誰もが会得できると言ってたそうです。

なんかいいですよね~。

自己滅却 自己第一義

ん、どゆこと?

言葉だけでみるとよく分かりませんね。

これはうちの合気道で目指している境地を表したもののひとつです。
自己を滅却して、なおかつ自己を第一義にしなさい、です(-_-;)

 

ここからは私個人の解釈です。

自己を滅却の自己とは
「わたしが~する」という時のわたしです。

最近は、意図することをやめるというより
やろうとしているわたしという固定点を自由にするという感覚

自己を第一義にするときの自己とは
意図して動かせないものです。
細胞の分裂や心臓の鼓動、または星の運行などを可能にしているハタラキ
そういうハタラキと同質のハタラキのことだと。

「星よ速く動け~」ってやってもできないですよね。でも実感はなくても星を動かしている何かのハタラキはある。

ここでおもしろいのは、そういう実感のない意図で動かせない何か
それを自己だと言っているところです!

 

おぉ~、なんだかおもしろくなってきましたね。
「わたし」という解釈の変更を要求されてますね。

”WHO AM I ?”

合気道

私が今学んでいる合気道は

「母体武道」 「創造武」 「処世の実学」である。

と言われています。

どうですか?

ワクワクしませんか?

”おぉ~‼” わっちのテンションは爆上がりでした。

元々武道には興味があったのですがいろんな武道を渡り歩く気にもならず、どうしたものかなぁって思っていた時にここの合気道に出会いました。
効率がいいといいますか、母体武道という言葉に惹かれました。

しかも、処世の実学でもあり人生の万般に通ずる道で、それが創造武でもあると言っているんです!

つまりは、この世界を作り出している仕組みを見据えているものなんだなと。

そんな合気道の可能性も探求しています。

学びとは変容であり、リベラルアーツ。
学べば学ぶほど自由自在になっていくものだと思っています。

はじめまして

「皆もすなるブログといふものを我もしてみむとてするなり。それの年…」

ブログはじめました。船津宏と申します。

平井稔先生が残され、成田新十郎先生に受け継がれた合気道

このことを中心に日々感じていることや思っていること、

今の認識などを綴っていきたいと思っています。

 

既知と未知、自己と他者、太陽と月、実数と虚数、男性性と女性性

意図していることと自然のハタラキ

 

このシェアは世界の豊かさに繋がっていくと思っています。

どうぞよろしくお願いします。